evergreen for you


朝日が眩しい。ガーベラでいっぱいのブリキのバケツは、見た目の華やかさに比例して重い。やっとの思いで軒先へ出し、ひたいの汗を拭った。街の片隅の小さな花屋でも、咲き誇る彼ら彼女らの美しさは変わらない。花屋の朝は早い。といっても、市場から届くのが早いだけで、実際の開店時間はまだ少し先だ。それまでにやることは山ほどあるのだけど、とりあえず今は少し休憩。

わたしは、ここから見るこの街が好き。

ここに立っていると色んな人を見る。通学時間の子どもたちは、意気揚々と駆けていく。くたびれた顔の大人たちは、重い足取りで去っていく。ここには沢山の人が住んでいる。その誰もが、多少なりとも何かを抱えて生きている。わたしは願ってやまない。この朝日が、いつまでも昇り続けますように。そして疲れた誰かには、何かいいことがありますように。そのための花屋ですから!

「さて、お仕事おしご、と……おお!?」

思わず飛びのいてしまった。気づかない間に隣に人が立っていた。真っ黒のつなぎ、真っ黒のヘルメット、顔も、手や首みたいな肌すら見えない。朝の光の中で、背の高いヒョロッとした影が、ぬっと急に浮いたみたいだった。

「お、お客様ですか……?」

微かに頷くような仕草。

「ごめんなさい、開店はまだで……」

影の人は飛び上がる。その後胸の前で手を合わせて、しきりにお辞儀をしている。悪い人じゃないみたいだ。相変わらず表情も分からないけど、なんとなく可愛くなってしまった。

「あ、でも、大丈夫ですよ!ここ、わたしの店だから融通きくので、あなただけ特別!」

中途半端に開けていたシャッターをグイと押し上げて、扉のプレートを「OPEN」に変える。

「さ、どうぞ!」

促すと影の人はおたおたしていたが、もう一度どうぞと声をかけると、そろりと店へ入ってきた。

「今日は何をお探しですか?」

訊ねてみるが、じっと花を見つめて考えるばかりで、彼は返答をよこさない。出会ってから一度も声を聞いていないし、もしかしたら話せないのかもしれない。それならば筆談なら……とペンに手を伸ばしかけたとき、彼がスッと手を挙げた。

「あら、お決まりですか?」
「……」
「これと、これと、これとこれ……まあ、すごく綺麗で豪華な花束!」

思わず不躾に彼の顔、シールドを見る。照れているのか、うなじに手を当ててぺこぺこ頭を下げているのがなんだかおかしい。リボンを選んでもらい、色のついた紙を巻いて、くるくる回して整えていけば、ちょっと見たことのないびっくり箱の出来上がりだ。どうぞと彼に向けてみる。しばらくじっと眺めた後、彼はわたしの空いた左手を両手で掴んでブンブン振った。

大事そうにブーケを抱えて何度も眺めている彼を見ていると、花屋ってなんて幸せな仕事なんだろうと思えてくる。この瞬間のためにやってるんだよねえ、なんて思う。同時に、あんな素敵な花束を作らせてくれた彼に、とても感謝したくなった。

「あの!これ、サービスです!」

荷物になるかとは思ったけど、やっぱりどうしても渡したかった。今朝入ってきたばかりの、色とりどりのガーベラたち。その中でも、とびきり白く、しゃんと美しく咲いたのを。彼はわたしに向き直り、恐る恐る指を自分に向ける。わたしが頷くと、彼はその一輪を恭しく受け取って、その手でヘルメットの黒いシールドを上げた。シールドの向こう、薄いグレーの瞳は、柔らかく細められ、朝露のようにきらめいていた。



その後も、彼は時々バイクを駆ってやってきた。いつも決まって雨上がりの、空気の澄んだ晴れの朝。彼は話さなかったけれど、なんとなく意思の疎通はできた。一度だけ名前を尋ねたとき、鉛筆で几帳面に「M i k a」と綴ってくれたが、書くのに随分悩んでいたので、もしかしたら字を書くのが苦手なのかもしれないと思って、筆談を試すのもやめにした。見えるのは目だけだけど、表情は結構豊かだった。花好きだけど虫嫌いで、薔薇の葉にくっついていた小さな毛虫を見て、涙を浮かべながらわたしの後ろに隠れたのには、ちょっとだけ呆れた。

「それじゃあミカ、いい1日を!」

カウベルを背中に聞きながら、バックパックに刺さった花がのろのろ安全運転で遠ざかっていくのを見送った日は、わたしにとっていつも素晴らしい日になるのだった。



週末から続く長い雨で、街は酷い有様だった。いくつかの地区で堰が切れて、浸水の被害が起こっているとアナウンサーが伝えている。ラジオを切って店じまいの支度をする。こちらにもいつ被害が出るか分からない。念のために土嚢を用意しておいた方がいいかもしれない。

足早に通りを駆け抜ける。もう夏が近いのに少し肌寒い。雨の夜は普段とは違って視界が悪くて、心なし空気も不穏に感じる。風に傘をとられそうになりながらやっとの思いで辿り着いた我が家、鍵を開けようとポケットをまさぐるが、出てきたのは携帯電話だけだった。

最悪だ。

ひとりで悪態をついても仕方ない。折れそうな心をなんとか奮い立たせて、元来た道を引き返す。今朝鍵を閉めて、店に着いたときにはあったのだ。店の中に置いてきたのだと思いたい。さっきの道中で落としてなければいいけど。……歩いている人がひとりもいない。時々すれ違う車のヘッドライトがオアシスみたいだ。それもだんだんなくなっていく。暗い雲が垂れ込めている。嫌な想像ばかりしてしまう。この道を歩いていてこんな気持ちになったことなんて、今まで一度も……

その時、けたたましい音が響いた。

行こうとしていた角から凄まじい水飛沫を上げて、大きなバイクが滑ってきたのだ。一緒に人も転がってくる。事故だ!

「大丈夫ですか!?救急車を……」

傘が飛ぶ。駆け寄った途端、弾かれるように立ち上がったその人は、わたしの胸元に銃を突きつけた。

「いいか、アンタは俺の人質だ、アンタの命は俺が握ってる、俺の言うことを聞け、さもなくば……」

悲鳴を上げる間も無く、銃声が響いた。わたしの胸元からじゃない。思わずそちらに目をやると、いつの間に現れたのか単車に跨った黒ずくめの人間がいた。その手元から煙が上がっている。わたしに銃を突きつけた男は、向こうに立つ影を見るやいなや顔を真っ白にして、わたしを盾に後退いた。

「止まれ!コイツのこと撃つぞ!」

黒ずくめの人は、銃口を向けたまま、単車を置いてゆっくりと歩いてくる。

「何だよ!くそッ!バケモノめ!」

喚きながら男が何発も撃つ。どれも彼には当たらない。そのうちにカチ、カチカチ、と間抜けな音がし始めた。男は銃を放り投げると、袖からナイフを取り出した。

「う、運が悪かったと、諦めるんだな、嬢ちゃん、彼奴らの姿見ちまった以上、俺とアンタは運命共同体だぞ、わかったか、なあ」

頭上で呟かれた言葉は、わたしに向けてというよりは、正直自分に言い聞かせるような、そんな声色だった。

銃声が飛ぶ。男が膝を折る。引っ張られたわたしも転ぶ。拍子にナイフが頬を掠めて、焼かれたように熱くなった。単車の彼は止まらない。距離は縮まっていく。男はいよいよ、わたしの頚動脈にナイフを当てる。わたしは目を閉じる。この街が好きだった。行き交う人の幸せを願っていた。わたしの幸せを願ってくれる人はいたのだろうか。いてくれたのだと思いたい。瞼の裏に浮かぶのは、几帳面なブロック体、ちらりと見えるそばかす、アイスグレーの瞳、それから、


「“焚書”は恙無く遂行されました」


不意に後ろから声がした。目を開けると、ナイフの男は跡形もなく、煙のように消えてしまっていた。

「失礼しましたお嬢さん、頬の他にお怪我はありませんか?」

回ってきたボブの女性は、冷ややかな表情のまま、わたしに手をのべる。

「お怪我は?」
「あ……」
「いえ、構いません。人間、許容量を越えたときは処理が追いつかないものですから」

どうしたものか迷っている間に、彼女は片眉を上げて手をスッと下げてしまった。

「さて、お嬢さん。急かすようで申し訳ありませんが、一つ我々と約束をしていただきたい」
「は……」
「今夜のことはどうか全てお忘れ下さるよう。重ねて詫びなければならないのですが、我々も人手不足でして。個々のケースの記憶の処理に割ける人員がいないのですよ」

女性の口調は慇懃だったが、革手袋はナイフを弄んでいた。さっきの男の物だろう。わたしは小さく肯いた。初めて彼女が微笑んだ。

「結構。ご協力に感謝致します。では」

女性はわたしに背を向けると、銃口を下ろしたライダーの肩をポンと叩いた。

「お別れを言うといい。私は先に戻っている」


影はしばらく立ち竦んでいたが、やがてわたしの前へとやって来た。しゃがみこんで頬の傷をなぞる指先は、ごわついたグローブで覆われていて、何の温度も感じない。

わたしは何度か深呼吸をして、彼のシールドに指をかけた。

「ミカ」

ミカはわたしの手に手を重ねると、ゆっくりとかぶりを横に振った。

「さっきの人は、お別れと。でも、また、来てくれるでしょう?」
「……」
「きっと、明日は、雨が上がるわ。素敵な朝には、あなたが、いないと」
「……」

返事がないのはいつも通り。なのに心臓がとてもうるさい。きっと今、ミカはわたしの一番好きな瞳をしている。優しく、穏やかで、どこか痛ましい朝露のような瞳。見ることは叶わない。ミカが、それを望まないから。

多分、何を言っても後悔するのだろう。わたしは手を下ろす。

「ミカ、わたし、この街が好きなの」
「……」
「だから、この街で生きている、あなたのことも、大好きよ、ミカ。あなたが、どんな人でも、好き。ずっと好き。本当よ、だから、」

どうかあなたに良いことが。
言おうとした言葉は、軽い衝撃に遮られた。



目を覚ました時、わたしは自分の部屋のベッドに横たわっていた。家の鍵はベッドサイドに、塗り薬と清潔なガーゼも一緒に。空気はとても澄んでいて、わたしの言った通り素晴らしい朝。全てが嘘のようで、けれど嘘でないことを、頬の切り傷が主張していた。

普段の通りに店を開ける。ここのところ、こんな風に晴れた朝にはいつも一緒に押し上げてくれる人がいたから、一人で上げるシャッターはとても重たく感じる。水を入れ、花を生け、出来るだけ綺麗に長く咲くように、ほんの少し祈りを込める。この花が、どうか誰かの希望になるように。

カウベルが鳴る。

「お早うミズ・グレース。お手紙ですよ」
「お早うおじ様。どうもありがとう」

ウインクをして去っていく配達員を見送ってから、封筒を裏返してみる。差出人の名前はない。

「何かしら?」

丁寧に糊付けされた薄い封筒。ナイフを差し入れて開けてみる。中を確認した途端、わたしは声をあげて泣いてしまった。

それは初めて、ミカがこの店にやってきた時、彼が選んだ花束と一緒に、おまけと言ってわたしが渡した、白いガーベラの押し花だった。



  • 最終更新:2018-01-28 19:43:33

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