同じ光を行けずとも

「……よく眠っている」

数えで七つになったばかりの弟を見下ろし、薄暗い部屋、少女はぽつりと呟いた。頬をさらりと撫でる。産毛に覆われた白い肌は、昼間よく泣いた跡をほんのり残し、うっすら血潮を透けさせて穏やかに眠っている。

十の頃に生まれた弟。

その齢まで、跡目は自分が継ぐものと生き、またそういう者として生かされてきた。そこに少女の意思はなかったが、しかし異議もなかった。能力を持ってこの家に生れ落ちた、それだけで充分な理由だった。情も金も目も手も声も、掛けられなかったものは何一つとしてない。それが娘としてでも人間としてでもなく、例え「家督として」であったとしても。掛けられた事実が、彼女を生かしていた。

彼が産まれた時、少女は悟った。
自身の役目の終わる日を。

風が強い。奥まった部屋の戸まで揺らす品のない風が、鋏を入れたことのない髪を揺らして消える。少女は垂髪を押さえると目を伏せる。指先に弟の頬がある。なぞり、おとがいを降り、辿り着いた頸は細く、まだ仏を宿さない。通り過ぎれば覚束なく拍を刻む、命の潮の根源へと至る。少女は手のひらにその脈を感じる。未だ人と神の境にいる者の、存在していることの温かみを、彼女はその手に確かめる。

目を伏せたまま、彼女はゆっくりと屈み込み、彼の額へ唇を落とした。

「善くお眠り、我が弟よ」

囁きよりもか細い声で呟く。

「願わくば、これから君の生きる道に、木漏れ日が如く清福の降り注がんことを」

明日の儀を以って彼が跡目を継ぐ。自身の役目は此処で終わる。呪われた運命は終わらせる。眩いほど精緻な結界、ひたむきな祈りに背を向けて、少女は庭へ歩き出す。低い月。腥さを帯びる風。袂を暴こうとする不穏なそれをいなす事もせず、少女はただ一心に庭を目指す。



「逃げも、殺しもせなんだか」

男は苦々しく吐き捨てると少女へと向き直った。その足元に、嘗て人だったものが転がっている。対する彼女は動じもせず、清々しい顔で笑ってみせた。

「我が術道の極致、天帝へ捧げる反呪の術式。師父より継ぎしこの奥義、我が身未熟なれば完璧には程遠くとも、これより私に削がれる貴殿では、もはや彼に傷一つ与えられまい」
「……こうなる事を予期していたな?まこと気高く、憎たらしい娘よ。その矜持と計算高さ、そこに転がるお前の祖父によく似ている」

男が溜息をつく。と同時に、鉄すら蕩かす灼熱が周囲を巻く。黒髪の先を火が嬲っても、少女は身じろぎひとつ起こさない。

「梓。愚かで憐れな我が娘。お前があれに施した奇跡は、余りに術者を喰らいすぎる。いかに“先天”のお前でも、今はかんばせのままの小娘だ。十全でないまま仮に私を退けたとて、待つのは重い“返し”である事、知らぬ阿呆でもあるまいに、それでも私に挑むのか」
「仔細ない。斃れる前に斃すまで」
「何故、そうまでしてあれを護ろうとする?昇華者の父は、あれを見るたびに自身の限界を突きつけられるようで気が狂わんばかりだというのに。お前とて、正しく“先天”として生れたというのに、自身の居場所を奪われるのだぞ。そこな翁もそうだ。貴様ら“先天”は、何故力を持ちながら、弱く脆く自身を護る術も持たぬあれの盾になろうとする?それが持って生まれた者の大義だとでも言うのか?だとすればそれは傲慢だ。力の無きは淘汰されるべきであろう?」
「大義など。……愛おしいという感情を彼に教わった。それ以上の理由が、どうして必要ありましょう」

少女に触れた焔が霧散する。刹那、玉砂利に天鵞絨の絨毯が敷き詰められ、絢爛なシャンデリアが煌めき、庭園は豪奢な洋館となる。瀟洒な楽団の演奏に合わせ、影法師たちが回り出す。

「我らの呪術はあくまで外法。どれだけ力に優れていても、それは倫より外れた力。なればこそ、私は持たざるを尊ぶのです、父上。彼らが光を行くのであれば、我が師、祖父上がそうなされたように、光断たんとする者への報いに、影はこの身を賭するのみ」

獣が吼える。
ダンスホールに悲鳴が落ちた。



鈍い痛みで目が覚めた。左手で“右腕のあった場所”を摩ると、痛みが幾らかましになる気がした。時計は午前1時を指している。起床時間には程遠い。あの夜と同じ月がそうさせるのか、随分昔の夢を見た。薬を服むまでもなくおさまった鈍痛は、あの日壊死した右腕の記憶だ。

初めて呪術で人を殺めた。父のなきがらへ別れを告げて、辛くも残った身体を引き摺り、夜明けを待たずに出奔し、この最果てに流れ着いた。

選ぶことに迷いはなく、選んだ道にも悔いはない。四肢を幾らか失いはしたが、手にかけた命に比べれば、罰としては軽すぎる。そもそも呪いを宿して生まれてきたのだ、まともな死に方をできるとは考えていない。死した後、楽園に生まれたいとも思わない。そう願うほど敬虔でもない。自分は情が薄いのだろう。執着も。

では何故、私は此処にいるのだろうか。何故、此処を選んだのか。此処は生きたい者と、護りたい者の砦。私はどちらか。……どちらでありたいのか。

無論、答えなど決まっている。

今年、数え十三となる弟。暗い異能を持たずに生れ、私に生きる意味を示した、陽の下で生きていくに値する者。彼は持たずに生を受けた。父はそれを疎んだが、私にとってそれは光だった。彼を下すことも、いつか対峙することもせずに済む。彼の行く道、私の選ぶこと叶わなかったその道が、この世にあらん限りの柔らかな光輝と、温かい幸福に満ちるよう。例えあの宵が今生の別れであったのだとしても、生きている限り、役目は終わらない。私は彼の生きる世界を護るために生まれ、護るために生きるのだ。

  • 最終更新:2018-01-28 19:40:44

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